アイドルになれないなら死にたい

東京ドブ川ストーリー

『女子をこじらせて』雨宮まみ

衝撃であった。2011年、どのようにしてこの本に出会ったのかは忘れてしまったが、兎にも角にも、泣きながら読みふけったのであった。
何度も再読もしたし、父にも友人にもすすめたくらいだ。(でも誰も読んではくれなかった)

 

当時の私はそれにひどく共感した。筆者の鬱屈した性格は、はたから見れば滑稽であるのだが、

自分にも潜んでいるこじらせが満載になっており、身につまされる思いをした。

先日、文庫が出版された。
解説に上野千鶴子女史を迎え、文庫版の濃厚なあとがきも巻末に収められている。

 

かつての私は女として不完全であると強く思い込み、女でいることをやめたくて仕方がなかった。
ぼさぼさの髪に、よれよれのTシャツ、男の子のような服装をして、私は私自身を女であるということから遠ざけていた。

私は本書に対して居心地の良さを感じた。
こういう風に自分を極力女であるということから遠ざけたい人間 は他にもいるのだと、私は心強く思った。
まみさんの痛快な自分語りは私自身の自己分析にもなっていた。

しかし、果たしてその自己分析とやらで打開策は見いだせたのだろうか。
まみさんの本に答えを求めすぎて、自身が思考することをやめてしまっていたのではないだろうか。
共感ばかりを求めすぎて、自身の立ち位置や、機会や外部環境というものを置き去りにしてしまったのではないだろうか。

「本を読むとき、答えを探すのではなく、答え合わせとして読みなさい」と友達がこんなことを言っていた。
本当にその通りだと思う。

本に対して、共感したり、感動したりすることはもちろんいいことだ。
しかし、安心してはいけないのだと思った。自分と同じ価値観を見つけて嬉しくなるが、決してそれが答えではない。

私はもうこの本を読まないだろう。できれば読まずにいたい。
(文庫版は買ったが本編は読まず、解説とあとがきのみを読んだ。)
もし再読してしまったら、また自己分析の海へ投げ出されてしまうのではないだろうか、と怖いからだ。

こじらせは誰もほどいてはくれない。
こじらせというドアを解き放つのは、
他者からのありがたいご助言でも
嬉しい暴言でも小突き合いでも
女子会で繰り広げられる愚痴の言い合いでも
スピリチュアルでもオカルトでも
社会運動でもデモでも脱原発でも
音楽でも本でも偉人でも
ないのだ。

世間ずれしていく中で、やっと自分の立ち位置が見えてきた。
「世界の約束を知って、それなりになって」とフジファブリック志村も歌ってたように

それなりになってようやく見えてくるのだ。
自分がどうありたいかとか、どうなりたいかとか、どうならなれるとか。

そのドアは自分でこじあけるしかないのだ。
こじらせのドアをこじあけるのだ

私は今、おもいきり女子を楽しみたいと思うのだ。
こじらせというボロ服を脱ぎ捨て、男にとってのいい女という鉄面皮を被ってみたいのだ。

とりあえずやってみたいのだ。本書解説内のワードで言えば"優しいおばあちゃん"になりたいのだ。尽くしてものわかりのいい女を演じてみたいのだ。日々の暮らしの中でなんとかそういったこじらせに笑いに自己卑下にネタに頼らず生きていきたいのだ。

私は女子だ。女子である。女子を女子らしく享受し全うしたいのである。